福島県立富岡高校「母校で校歌を歌い隊」がかながわ校歌祭に参加!

about

 6年前の東京電力福島第一原発の事故により避難地域に指定された地区の五つの県立高校は、他の学校の校舎の一部を借用して授業を継続してきましたが、生徒数が減少したため、今年3月最後の卒業生を送り出して休校となりました。
 その一つ富岡高校の卒業生・教職員有志は、震災直後の混乱が収まり制限付きで立ち入りが許されるようになって以来、毎月1回誰もいない校舎に集まり校歌を歌い続けてきています。
 この皆さん、名付けて「母校で校歌を歌い隊!」を、わが第12回「青春 かながわ校歌祭」にお誘いしたところ、はるばる参加してくださることになりました。
 校歌は、卒業後も永く心の寄りどころという想いは、ともに共鳴し合うものがあります。大歓迎しようではありませんか!

かながわ校歌振興会 名誉会長 天野武和

元 富岡高等学校長 青木淑子様からのメッセージ

about

 「母校で校歌を歌い隊」これは、私達のチーム名です。軽いしゃれのようなネーミングですが、しゃれにならない状況があります。私達の母校が、「休校」という名の下に実質的には、今年の4月からなくなってしまったからです。
 2011年3月11日に発生した東日本大震災は、岩手・宮城・福島に大きな爪痕を残しました。中でも、福島は、地震・津波に加えて原子力発電所の爆発という想定外の人災に見舞われ、多くの避難者を出しました。福島県の太平洋岸にある双葉郡の町村を始め、原発事故の影響で、避難を余儀なくされた人々は、当初10万人を越えました。双葉郡の真ん中に位置する富岡町も、南北に二つの原子力発電所が建っており、3月12日全町避難の指示を受けました。人口15827名6300世帯の町民は、全員避難しました。住み慣れた町、家族、学校、職場、友達、田畑、家畜、ペット・・・大切なものは何一つ車には乗せられません。それでも、皆、思っていました。「すぐに帰れるから」と。
 ところが、それから6年間、誰一人町に帰って暮らした者は居ませんでした。
 富岡高校も、例外ではありません。国際スポーツ科という科を持っていた富高は、全国から世界で活躍できるアスリートになる夢を持った生徒が集まっていました。サッカー、バドミントン、ゴルフと、彼らは目標に向かって、日々練習に励んでいました。震災後は、学校に立ち入ることは許されず、県内外に設けられたサテライト校で、富岡高校生としての夢の実現を諦めませんでした。全国に避難したままバラバラになった町民の心が、富高生の活躍を応援することで一つになりました。試合で流れる校歌は、その証しでした。
避難から3年、一昨年の8月、避難後始めて校舎に入った震災当時の在校生達が校歌を歌い出しました。生徒の姿も声も聞こえない校舎、久々に響く校歌は、大きく大きく聞こえました。校舎が喜んでいるように見えました。その年の10月から、毎月第3日曜日10時、私達は、富岡町にある富岡高校の校庭に立ち、2時46分で止まったままの時計の下で校歌を歌っています。
 必ずいつかまた、この校舎に生徒の歌う校歌が響く日が来ることを信じています。
 「復校 富高」・・・今年最期の卒業生が卒業式に残した看板です。

元 富岡高等学校長  青木淑子(富岡町3・11を語る会)